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2013/12/12

【1年生】社会科「古代史ダッシュde総復習」(1-2)

Tweet ThisSend to Facebook | by:Web管理

みなさん、こんにちは。
本日は1-2の授業が二時間連続だったので、古代史総復習を行いました!!
1時間ごとの授業だと流れが分かりにくくなりがちです。
ぜひつながりを意識して頭の中で整理してみてください。





講義概要



【旧石器時代】
日本には旧石器時代はないと考えられていたのですが、相沢忠洋が岩宿遺跡で打製石器を見つけたことにより、日本にも旧石器時代があったことが分かりました。群馬県の皆さんは、小学校社会科で相沢忠洋は学習していると思います。受験生たちは忠洋の「ひろ」が書けなくて間違いになるところですね。


【縄文時代】
約1万2千年前、縄文土器が作られるようになります。縄文時代のポイントは新石器時代であるにもかかわらず、農耕・牧畜をしないことなんですよね。古代文明で新石器革命と農耕牧畜はセットで覚えるので、あれ?農耕牧畜していないということは縄文時代は旧石器時代?とか勘違いしちゃうのですね!気を付けましょう。


【弥生時代】
☆稲作と中国の歴史書
紀元前4世紀から3世紀ごろまでが弥生時代です。いよいよ日本でも農耕が始まります。稲作の開始ですね。日本では貴金属の利用も青銅器と鉄器が同時に流入したことも特徴的でしたよね。そのため青銅器は祭祀用に使用されたという流れです。そして中国の歴史書の記述の中に「倭国」があらわれはじめます。日本は無文字社会で歴史書を編纂していなかったのですが、中国の歴史書の中から日本の歴史が分かるのです!!日本が初めて歴史叙述の中に登場したのが「漢書地理誌」。楽浪海中に倭人ありの文言で有名ですよね!!次に「後漢書東夷伝」。ここで初めての特定の年代「57年」が記されます。「漢委奴国王」の金印ですね。語呂合わせ「後(5)漢書に奴(7)国の遣使!」。50年後の107年には倭国王帥升が生口を送ったことも記述されています。そして「魏志倭人伝」。邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の称号をもらっています。「文来る(239)よ卑弥呼」と語呂暗記。




【古墳時代】
☆前方後円墳の登場
3世紀の終わりごろから古墳時代が始まりますが、4世紀は謎の4世紀。これまで中国の歴史書に倭国の歴史が記されていたのですが、中国が分裂してしまったので倭国の記述はなくなります。ですが、4世紀には大和政権が拡大していったことが分かります。それはなぜでしょうか。理由は前方後円墳の広がりです。「古墳が画一性をもって出現する」ということは「古墳の出現に先立って広域の政治連合が形成されていた」こと、さらに「古墳がこの政治連合に加わった各地の首長たちの共通の墓制として創出された」ことを意味しているのですね。ここから大和政権の成立と拡大が分かるのですね。


☆5世紀の倭国
5世紀ごろ、再び中国の歴史書に倭国の記述がみられるようになります。倭の五王は「讃・珍・済・興・武」。特に倭の「武」王は頻出事項です。「死なや(478)もろとも倭の武王」と覚えましょう。倭の武王は雄略天皇と推定されており、「ワカタケル」であるとされています。この「ワカタケル」は日本列島の東西に勢力を伸ばしていくのですが、そのことはなぜわかるのでしょうか。それは「ワカタケル」と記された鉄剣と鉄刀が、それぞれ埼玉県稲荷山古墳と熊本県江田船山古墳から出土していることから分かるのですね。つまり、「ワカタケル」に由来する出土品が東西から発掘されたということは、「ワカタケル」が東西に勢力をほこっていたことの証明になるのです!!!こうして大和政権は日本支配を進めていったのですね。




【飛鳥時代】



☆6世紀 東アジアの激動!
6世紀になると東アジアは激動の時代になります。589年に隋が中国を統一すると周辺諸国へ強圧を強めていきます。そんな中、大和政権は不安定な状況にありました。朝鮮半島への影響力は562年新羅に伽耶が制圧されたことによって後退します。そして倭国国内では、527年に磐井の乱が起こったり、崇仏論争で物部守屋と蘇我馬子が争ったりと政治混乱は続きます。このような外圧と政治混乱の中、あらわれたのが聖徳太子だったのです!!593年推古天皇の摂政となった聖徳太子は600年に第一次遣隋使を派遣します。ですが、この遣隋使。隋の文帝に非難され空しく帰国することになるのですね。こうして聖徳太子は世界帝国である隋と交際するための政治・儀礼制度として、冠位十二階の制と憲法十七条を制定したのです。こうして607年に小野妹子を第二次遣隋使として派遣します。





☆煬帝大激怒
そしていよいよ「煬帝大激怒の巻き」が始まります。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、云々……」のエピソードですね。煬帝は倭国の大王が「天子」と自称したことに対して不快の念を抱くのです。当時の中国の貿易体制では朝貢貿易であり、世界の中心である天子は皇帝のみなのですね。倭国の遣隋使は隋にとってみれば「無礼」な「蛮夷」な使節だったのですが・・・しかしながら、なんと国使が遣わされます。これは隋と対戦中の高句麗が倭国と結びつくことを恐れたためですね。その後、遣隋使は続き、留学生や学問僧が使わされます。彼らのおかげで中国の先進知識が倭国に強まり、古代国家の形成が行われていく事になるのです。

 

 


 


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